KENTO YOSHIOKA interview "RAT LIFE" by changsu 【JAPANSE 】

20240311

Words and photos by changsu

現在、最も生産的で勢いのある若手スケーターの代名詞と言っても過言ではない吉岡賢人。 その人生は決して順風満帆なものではなく、聞くところによると なんと中学卒業後に単身上京し、数年ホームレス生活をしていたようだ。 大志を抱きすぎた少年が大都会東京で何を考え、どう生きてきたのか。

ドブネズミ流のサバイブ術、生き残り、勝ち上がるためのロジックとは? 写真には映らないホームレス時代の回想とともに掘り下げていく。

switch backside boardslide
switch backside boardslide

changsu(以下: C)

さっそくだけど、何年ぐらいホームレスやってたの?

Kento(以下:K)

中学を卒業して15歳で東京に来て、2015年の4月から

2018年の4月まで丸3年ですね。今は24歳で東京に来て9年目です。

C

3年ホームレス生活...やばいね。どこで寝てたの?

K

夏は渋谷センター街のとあるビルのエレベーター横に雨風凌げる隙間が あって、段ボールを敷いて寝てました(笑)。冬は流石に辛くて、渋谷にいるス ケーターと一緒に遊んで、夜は酒を飲んで体力が尽きたらフェードアウトしてそ こで寝てました。あとは世田谷公園、田町のパーク横の川っぺり、代々木公 園、井の頭公園でも寝てました。スケートパークか、その近くのストリートで寝て、 起きたら滑って、その後はスケーターに付いていくという行動パターンでした。 吉祥寺のinstantスケートショップでもよく寝させてもいました。あとはDJの先輩 の彼女の実家が板橋にあって、そこの物置に1年近くお世話になっていました。 物置の家賃は月2万円で、払える時払いでした。そこのお母さんがめちゃくちゃ良 い人で、よくご飯を作ってくれてご馳走になってました。

C

ヘッシュやなあ(笑)。

K

そんで当時通ってた板橋の定時制を速攻で辞めて、コンビニバイトで貯め た金でニューヨークに行くんですよ。行く前にシェイク・ジュンジがコナー・カ メラーを紹介してくれて、NYではコナー(Connor Kammerer)の家にお世話になりながら毎日滑って ましたね。そしたら偶然スポットでリカルドってブラジル人のフィルマーと出会っ て、一緒に撮影したら一晩で数カット撮れて。その後もちょこちょこ撮れて、 TRANSWORLDでショートパートを出せたんです。それで「アメリカに1回 行ったらTRANSWORLDとかも出れてやばい!この動きしたら上がれる!」っ てなりました。日本にいる時は、当時やっていたビデオプロジェクト、“Apple” で動いて、ニューヨークに行ったらリカルドと撮影するってルーティンを3回程 繰り返して、遂にフルパートをTRANSWORLDから発表することができまし た。そんでニューヨークから帰国したはいいものの、金も家もなくて ...。夜中 に Lesqueハウス行ってアポなしピンポンしたんです。

C

思い付きにも程があるね(笑)

K

そしたら営業担当のツカっちゃんが出てきて、「こんな夜中にどうした?」って。 「ちょっと家ないんで今日から住んでもいいっすか?」ってお願いして転がり込 みました。当時はマンタロウも住んでいて、ヤツとはめちゃくちゃ喧嘩して半年

で出て行きましたけどね(笑)。お互い若かったのもあるし、今は仲良いですよ。 その後、吉祥寺で6畳1間の家賃4万円のアパートを借りて1人暮らしをするこ とになりました。

C

それでホームレス生活が終わるんだね。お金はどうやってメイクしてたの?

K

お金はバンタンの同世代をスマホで撮影して発表する“Pocket Patrol”っ てマンスリーコンテンツをやっていて、その活動費が貰えていました。地方の デモに呼んでもらったり、Ollie Magazineで毎月連載をやったり、先輩のス ケートスクールを手伝ったり、スケートに纏わることで定期的な収入が入るよう になったんです。そのアパートには3年ぐらい住んで、途中から守重琳央も一 緒に住んでました。3年経って俺は当時付き合っていた彼女と同棲しようと吉 祥寺でまた違う家を借りたんですよね。

C

また吉祥寺に住むんだ!好きだね~。

K

吉祥寺ってめちゃくちゃ調子いいんですよ。遊べて、滑れて、instantもあ る。スケーターも多くて、誰かしらすぐ合流できるんですよ。ちなみに吉祥寺に は DJやデザインをやっているシンノスケさんという、多感な時期の俺にパンク の精神性や音楽を叩き込んでくれたセンスの師匠みたいな先輩がいます。周 りはヒップホップを聴いてる奴らが多かったけど、その人の影響で、俺はパンク ロックを聴いてました。俺の中でシンノスケさんとシェイクジュンジくんの2人が 特に色々教えてくれた師匠です。ジュンジ君は初対面で合流した瞬間『オメー なんかおもしれー技やってみろよ』って言われて、ノーコンプライを2回するトリッ クをやったら面白がってくれて、その日にSHAKE JUNJIのライダーにしてくれ ました(笑)。太いパンツのスケータが多い中、ジュンジ君はただ一人ピチピチのパンツを履いて滑っていたのが最高に格好良くて。俺もガッツリ影響されて スキニーパンツを履いてました。反抗期のまま15歳で地元から出てきたから、 とりあえず人と極端に違う滑りやファッションをするのがのがかっけえと思って たんですよ(笑)。最近は少しズラしたり、普通に行くと見せかけてやっぱり変 な技をやるとか、自分なりの塩梅が分かってきました。

pop shove-it fast plant
pop shove-it fast plant

C

そのシニカルさとアンチな態度ってスケーターにとって重要な精神性でもあ るよね。昔みたいにスケーターが反逆児みたいな時代ってもう終わったのかも しれないね。今は良くも悪くもスケーターの中にもちゃんと社会があって、作法 や決まり事もあるから。

K

結構ガキの時から人と被りたくないバイブスはありましたね。というのも愛 媛の先輩で弓山真吾君ってスケーターがいて、上京直前の1年くらいは毎日 一緒に滑ってました。なんで、スケートに対するアプローチなんかは弓山真吾 くんからガキの時にめっちゃ影響受けてます。あと、愛媛にはブタゴリラ君って 先輩もいて、その2人から特に影響を受けたって感じです。

C

EVISENのライダーにはどういった経緯でなったの?

K

EVISEN VIDEO』が出たタイミングでチェックしたらめっちゃやられて。こ んなに格好良く世界に対してガチで勝負してる日本のブランドやばいなって 思って自分もライダーになりたいって思ったんです。そんでYUUMACさんに速 攻で電話して、EVISENのライダーになれるのかも分からないのに「EVISEN のライダーになりたいんでウェルカム辞めます」って伝えました(笑)。それから は instantで EVISENの板を買って乗ってました。丁度その時期にナオヤンと 撮影していて、ナオヤンが「KINARIに直接アピりに行こう」って言ってくれて、 一緒にKINARIに乗り込みました(笑)。勝己くんと伸平くんの前で当時18歳の 俺はガチガチに緊張しながら「EVISENのライダーになりたいです」って。

C

あっつ!2人はどんな反応だったの?

K

なんで入りたいの?って聞かれて、俺は目をキラキラさせながら「俺を一番 かっこよく世に出してくれるのは EVISENだと思うからです!」って伝えて ....うわ! この話めっちゃ恥ずかしいな(笑)。そしたら2人はお前わかってんなって感じで「いいね。お前は EVISENに乗れ!」みたいになってたっすね・・・

(ここでフィルマーのナオヤンが割って入る)

Naoya Morohashi(以下: N)

いや、その話全然ちゃうで。勝己君は結構 ドライな感じで「まあフッテージ見てからだね」って普通にあしらわれとったやん (笑)。でも、勝己君は嬉しそうでしたけどね。

K

多分関係性ほぼゼロからライダーになったのは俺だけっすね。

C

そうだったんだ。俺はてっきり誰かの推薦とか勝己君がスカウトしたのかと 思ってたよ。自ら機会を作って勝ち取りに行く感じが賢人っぽくて熱いね。

K

性格的にオファーとか待ってられないんで自らカチこむスタイルっすね。

N

そのとき、賢人が乗ってるボロボロのEVISENの板を勝己君が見て、「板 買ってくれてるの?取り敢えずこれからは渡すから」って言ってくれたんです けど、賢人が「俺はライダーになれるまで自分で買います!」って言い張ってて (笑)。それで賢人はinstantでEVISENの板を自分で買いながら『LENZ III』 の撮影が本格的に動き出したんです。これは余談なんですが、賢人はかなり長 い間一緒に撮影してたから世に出してないフッテージが60分程溜まってて...。

C

ええ!じゃあ約55分くらいはお蔵入りになったってこと?

K

『LENZ III』の公開もまだまだ先になるって話だったので、この映像どうし ようってなっちゃって。EVISENに正式にチーム入りした後に勝己君に相談し たらEVISENパートとしてTHRASHERから出そうってことになりました。だから あれはEVISEN用に撮ってた映像ではなく、当初は『LENZ III』の為に撮っ てた映像なんですよ。

C

なるほどね。賢人が正式にチームに入ることになったきっかけってなんだったの?

K

KINARIに話に行った時、タイミングで一緒に滑りに行こうってなってたの で、EVISENの撮影にがっついて同行して、勝己くんの目の前で鬼カマした んですよ。そしたらお前撮れるじゃんってなってくれて、徐々に受け入れてもらえました。撮影はいつも本気だけど、勝己君がいる時はもう1ギア上げて、絶 対に目の前でやばいのカマそうと思ってます。その緊張感は今も全く変わらな いですね。

hippie jump
hippie jump

C

賢人ってインスタのフォロワーめちゃくちゃ多いじゃん?なんであんなにいるの?

K

俺が19歳の時に上野伸平くんとクラブであって「おお賢人、お前LENZ の撮影頑張ってるな。これでみんなで酒飲めや」って1万円渡されたんですよ。 その後熱い話になって「賢人、お前は俺よりスケボーうまいで。でも俺の方が 金持ってる。これがどういうことか分かるか?」って言われて、俺も有名になっ て人気者にならなくちゃ!ってバイブスに火が着いたんです。そのあとEVISEN のパートをTHRASHERから出す時に、俺のパートの曲は5LACKにしたいと 勝己くんに提案したんです。当時同世代の皆も5LACKを聴いてたし、初め ての EVISENのパートで曲が5LACKだったら皆見てくれそうだなと思って。で もスケーターとして音楽家とセッションするってなった時、同じくらいフェイマス じゃないと失礼だなって思ったんです。当時5LACKのフォロワーが5万人くら いだったんですけど、せめてインスタだけでも彼よりフォロワーが多い状態でオ ファーしないとダメだなって思ったんです。それでどうやって有名になろうって 考えた時に、頭の中で誰もやってなくて話題になりそうな技をメモ帳に全部リ ストアップして、スマホで撮影して毎日ポストしたんですよ。そしたら案の定全 部バズって一気にフォロワーが6~7万人くらいまでいったんですよ。それで 5LACKよりフォロワーが多い状態にしてから勝己くんを通して楽曲をオファーしてもらいました。

N

これはこの時に限った話じゃなくて、賢人は毎回プロジェクトやパート撮影 のとき、トライするスポットとトリックを全部リストアップしてから撮影するんです よ。トリックだけじゃなくて心がけなんかもも一緒にメモして、それを常に待ち受 けにしてるんですよ。“人に優しくする“とか。

C

偶然バズったわけでなく、全部ロジカルに狙ったんだね。

K

昔はもっと細かく全部メモしてました。いつまでにVHSのピックアップを発 表する、いつまでに THRASHERに出るみたいに期日も決めて。俺の中で、 バズる要素として予想外のことをするというのがあって。当たり前だけど人って 想像を超えることを目の当たりにすると、やっぱりビックリするのでそれを狙って フォロワーを増やしにいきました。フォロワー数を気にするのはダサいって意見 も分かるけど、俺はフォロワー数って大事だと思います。実際それが説得力に なることもあるので。

C

細かくメモしたり期日を決めて計画する方法は誰かから教わったの?

K

いや、ガキの頃から自然にやってましたね。やっぱり思ってるだけだと忘れるし、 絶対実現させたいから。パートの構成とか曲も1回全部自分で決めてフィルマーと かエディターに提案してます。音楽家に対しても今までの自分の作品を一度見て もらって、自分がいかにガチなのかっていう熱意も伝えた上でお願いしています。

N

LENZ IIIのときも曲まで自分で指定してきたのは賢人だけでしたね。

wallie judo
wallie judo

C

また話はホームレス時代に戻るんだけど賢人は上京してきて主に誰と何処 で滑ってたの?

K

上京したての15歳の頃は全然ストリートで滑ってなくて、パークでAJSAを 目指してたんですよ。ある日、宮下公園にパークがあるって聞いて行ってみた らKPクルーの人達がいて、宮下で滑り終わった後、宮下の下にある“ウンコ カーブ”って呼ばれていたレッジスポットで滑ってて。東京のストリートスケーター超カッケー!って憧れの目で見てました。でもウンコカーブは全然極上ではなく、 むしろ詰まりやすくてスライドトリック以外は難しいレッジだったんです。だからウ ンコカーブって呼ばれてたんですけど、俺は田舎者だったからウンコカーブ超 カッケー、これが TOKYOストリートっしょー!って思ってたんですよ。ある時そん な場所に村岡洋樹くんがいきなり現れて、Kグラインドをガリガリガリーーってグ ラインドしてるのを見て、めっちゃカッケーー!って。愛媛にいる頃から洋樹くん のビデオをチェックしてたんで、ウンコカーブに現れる村岡洋樹、今村昌良、金 子次郎、この3人は僕にとってレジェンドでしたね。次郎くんとかスケートだけ 見てると最初は尖ってて怖い人なのかなって思ってたけど、ガキの俺にも「お 疲れさまですっ」って挨拶してくれて、めっちゃ腰低くてクソカッコいいって思い ました。謙虚チョーカッケーー!みたいな(笑)。その3人とKPの滑りが本当に 衝撃的で、そこから街の見方も全て変わりました。

C

まさかケントがウンコカーブ憧れ勢、ウンコヘッズだったとは(笑)。

K

その頃、宮下周辺で仲良くなった歳の近いコンビニエンスクルーとかと一 緒にストリートに行ってました。最初はハルが話しかけてきてくれて、愛媛にい た時に撮ったVHS MAGの“一本”を見てくれてたみたいで、『お前一本に出 てた奴っしょ?一緒に滑ろうぜ』って誘ってくれて。そこで同世代の深城天馬を 見て俺もこの方向性で行きたいって思いましたね。天馬の滑りはカッコ良すぎ てよくケンカしたな。俺が苦戦してメイクしたウォールライドを奴はさらっと被せ てメイクしてきたりして。その辺から渋いストリートスケートをする奴らに対して自 分のスケートが自信なくなってきて。嫉妬もあったし、ガキで反抗期だったから 喧嘩して、せっかく仲良くなって入れてもらったコンビニエンス・クルーも辞め て離れちゃうんです。今はもちろん仲良いですけどね。当時は仲良すぎて喧嘩したって感じです。

C

地元からブチかましに出てきたけど、東京のストリートでガッチリ滑ってる同 世代の奴らに出会って何か感じるものがあったんだね。

K

元々が大会キッズだったんで...。ストリートで友達から技を被せられたりした らキレて板ブチ折って帰ったりしてました。若気の至りですね(笑)。そこから 一時期同世代の友達が誰もいなくなって、1人で色んなパークとかに行きだ すんです。その時はマジで調子こいてたからパークでメット被ってハンドレール 回しインとか練習してる奴らをだっせーキッズだなってめっちゃ見下しちゃって て。同い年くらいなのに。その横でノーヘルでウォールにインとかしてドヤった

りして今思うとマジで最低なやつでした(笑)。そんな時に本橋瞭と出会って、 彼はめちゃくちゃピュアなバイブスで俺のスケートを認めてくれたんです。彼も 当時パークばっかりじゃなく、ストリートで撮影したいって気持ちだったのでスト リート行こうぜって誘ってくれたんですよ。それから横須賀の本ちゃんがやって た OURSがショップビデオを作ってたので、そのビデオに出るためにサトルく んと一緒に撮影で横須賀に行ったんですけどそこで守重琳央や本郷兄弟、 YUDAI TVたちと出会って仲良くなって、自然な流れでアップルのビデオ企 画が始まっていきました。純粋にスケボー好きな奴らに対して何も言えないし、 互いに認め合うことをこの頃に学びました。

C

素晴らしい出会いだね。

K

コンビニエンスクルーの奴らが引き合わせてくれたinstantの当時店長だっ た吉田サトルくんにもめちゃくちゃ世話になりました。俺がガキすぎて喧嘩する こともあったし、やっぱ好きすぎる人とは喧嘩しちゃうっぽいす(笑)。

C

賢人はめっちゃサトルくんのこと慕ってるよね。サトルくんがRIVERBIRCH をオープンさせるタイミングで賢人は移籍しようとは思わなかったの?

K

そこはサトルくんが抜けた分インスタント吉祥寺を若手でガッチリ盛り上げよ うみたいな気持ちがあって残ることにしました。やっぱり名物店長だったから、 サトルくんがいなくなった穴はデカいんですよ。

C

アツいね。俺はガッツリ絡んだことないけど、本ちゃんみたいな温かい人な んだろうなって勝手に想像してる(笑)。

K

まさにそんな感じっす。あのレベルの愛は他の人にはないと思います。マジ でお世話になりました。サトルくんがくれた愛はインスタント吉祥寺ストアで働く 若手にもしっかり受け継がれていて、俺がプロデッキを出した時も、店の壁一 面に俺の板を飾ってパーティーしてくれて。その時の俺的泣けるエピソードが、喧嘩別れした天馬がそのパーティーにしれっとやってきて、天馬はそんなに酒 呑む方じゃないのに皆でショットガンしようぜってなった時、誰も見てなさそうな 隅っこで1人ショットガンしてて... あれは泣いたなぁ(笑)。

switch crooks to fakie
switch crooks to fakie

C

賢人の情熱とポジティブバイブスが良い人を引き寄せてるんだよきっと。

K

だから、今回みたいにインタビューをしてもらえる機会に、お世話になった 人達の名前をちゃんとシャウトしたいんすよ。まずは俺が上京して初めてパート を撮ってくれた人はオナンです。そのときの映像は VHSMAGのピックアップ で発表されました。VHSMAGは初めて自分を取り挙げてくれたメディアなので VHSへの恩もマジでハンパないです。片方遥くんや金子次郎くんのパートを 出してる超 DOPEなメディアに出れたことは10代の自分にとって大きな自信 になりました。あとはEVISENのアートディレクター濱ちゃん。当時 VHSMAG でお世話になったし、地元にいた時に撮ってくれていたフィルマーのケンシンく んもマジでビガップです。今でも地元でビデオを作ってるのはケンシンくんぐら いだし、濱ちゃんにプッシュしてくれたのも彼でした。フィルマーのコトくんも自 分の VHSMAGの FEATUREパートを撮ってくれて感謝してます。このマガ ジンをやってるフォトグラファーの井関さんも自分が東京に出てきたての時に よく撮影してくれました。同じ四国の出身だからか、すごく良くしてくれました。 人生のとある期間、コアに一緒にやってきた人と勝ち上がっていく中で、一 緒に居られなくなるタイミングってあるじゃないですか?でも俺は人生のシー ズン毎に、デカい夢を実現させる為に一緒に動く人間を変えていて、それを 繰り返してるんです。

C

みんな人生のシーズンがあるから、それに引目を感じる必要はないと思うよ。

K

そうですね。それぞれの人生があるし。けど、過去に関わってきた人は自分 の人生において絶対に重要な人達だったから、こういう場で絶対シャウトアウト しておきたいです。インタビューでちゃんとその人たちの名前を挙げることが愛 と感謝を返せる唯一のタイミングだと思うから。あと俺は本当に俺を世に出し てくれた人達に恵まれてると思います。それが他の若手と一番違うところかも。 友達にもほんと恵まれてるし、やっぱりホームレス時代も誰かが一緒にずっと 居てくれたんで。家がなくて辛かったこともあったと思うけど、辛いことは何にも 覚えてないっす。金も家もなかったけど周りにずっと誰かがいてくれて本当に暇も寂しい思いもしなかったです。

C

今回のインタビューで賢人がなんで味方が多くていい感じに夢を実現でき てるのか分かった気がするよ。ありがとう!

K

ありがとうございます!

boneless
boneless

Kento Yoshioka(吉岡賢人) @japanese_super_rat

Born in 1999.
Matsuyama, Ehime Japan

Sponsor:
Evisen skateboards
adidas skateboarding
新宿租界
Maison shakejunzi
Instant skateshop
Film trucks
Bones wheels

KENTO YOSHIOKA interview "RAT LIFE" by Changsu 【English】

Words and photos by Changsu

Kento Yoshioka, often touted as the epitome of the most productive and influential young skateboarders today, has a life story that is far from smooth sailing. According to reports, after graduating from junior high school, he boldly moved to Tokyo alone and, it is said, spent several years experiencing homelessness. How did this ambitious young man, burdened with lofty aspirations, navigate and survive in the bustling metropolis of Tokyo? What strategies, survival instincts, and logic did he employ to overcome challenges and climb to success? Delving beyond the photographs, we explore his reflections on the unseen period of homelessness.

switch backside boardslide
switch backside boardslide

C: changsu
K: Kento yoshioka
N: Naoya Morohashi(filmer)

C: So, how many years were you homeless?

K: I graduated from junior high, came to Tokyo at the age of 15, and was homeless from April 2015 to April 2018, exactly three years. Now, I’m 24, and it’s my 9th year in Tokyo.

C: Three years of homelessness... that’s intense. Where did you sleep?

K: In the summer, there was a gap next to the elevator in a building in Shibuya Center Street where I could avoid the wind and rain, so I laid cardboard there and slept (laughs). In winter, it was tough, so after hanging out with skaters in Shibuya, drinking at night and fading out when my energy ran out, I’d sleep there. I also slept in places like Setagaya Park, along the river near Tamachi Park, Yoyogi Park, and Inokashira Park. I’d sleep near skate parks or on nearby streets, wake up, skate, and then follow skaters, that was the routine. I often crashed at Instant Skate Shop in Kichijoji too. I also stayed in the storage room of a DJ senpai’s girlfriend in Itabashi for almost a year. The rent for the storage room was 20,000 yen per month, paid whenever I could. She was so kind like a mother, often making meals for me, and I was treated well.

C: Quite a hectic lifestyle (laughs).

K: So, I quit the night school in Itabashi I was attending at the time, worked part- time at a convenience store to save money, and went to New York. Before going, Shake Junzi introduced me to Connor Kammerer so I stayed at Connor’s house and skated every day in New York. I happened to meet Ricardo, a Brazilian filmer, at a spot. We shot together and in one night we got several clips. After that, we shot here and there, and I was able to release a short part on Transworld. I thought, “If I can get on Transworld from one trip to America, that’s amazing! If I keep this up, I’ll come up!” So, when I returned from New York, I had no money or place to stay... I rang the doorbell at the Lesque House in the middle of the night without letting anyone know I was coming by.

C: Quite impulsive, huh? (laughs)

K: That’s when Tsuka-chan, the sales rep, came out, asking, “What are you doing at this hour?” I said, “I don’t have a home, can I live here from today?” I asked, and I rolled in. At that time, Mantaro also lived there and we had a big fight, but he moved out after about half a year (laughs). We were both young, and now we get along. After that, I rented a 6-tatami, one-room apartment in Kichijoji for 40,000 yen and started living alone.

foot plant
foot plant

C: So, that’s how your homeless life ended. How did you make money?

K: I was doing “Pocket Patrol,” a video I put out every month of Vantan students filmed on my smartphone and published online. I received money for that. I was invited to demos in various regions, had a monthly article in Ollie Magazine, helped out with a senior’s skate school, and had regular income related to skateboarding. I lived in that apartment for about three years, and eventually, Rio Morishige moved in too. After three years, I started living with my girlfriend and we rented another house in Kichijoji.

C: Living in Kichijoji again! You really like it there.

K: Kichijoji is amazing. You can have fun, skate, there’s Instant skate shop, many skaters, and you can easily meet people. There’s a guy named Shinnosuke in Kichijoji who is a DJ and designer. He was like a sensei who instilled punk spirit and music in me during my sensitive period. While others around me listened to hip-hop, I listened to punk rock. Shinnosuke and Shake Junzi, the two of them particularly influenced me a lot. When I first met Junzi, he said, “Show me something interesting,” so I did a No Comply twice, and he found it amusing. That day, I became SHAKE JUNZI’s rider (laughs). Junzi was the only skater wearing tight pants among skaters in baggy pants. I was greatly influenced, and I also wore skinny pants. I left my hometown at 15 in a rebellious phase, so I thought being different from others was cool. Conceptually (laughs). Now it’s not like that, but at that time, I thought it was cool to do things completely opposite to everyone else...

C: That cynical and anti-attitude is an essential mentality for skaters. The era when skaters were like rebellious kids might be over.

K: Since I was a kid, I had a strong vibe of not wanting to be like everyone else. This was mainly because there was a skater in Ehime named Shingo Yumiyama, who was my senior. For about a year before moving to Tokyo, we skated together every day. So, my approach to skateboarding was heavily influenced by him during my childhood. Also, there was another older skater in Ehime, known as Buta Gorilla- kun, and I feel I was particularly influenced by these two.

C: How did you become a rider for EVISEN?

K: When I checked out “EVISEN VIDEO” when it was released, I was blown away. I thought, “This Japanese brand is seriously challenging the world with such coolness, and I want to be a rider too.” So, I immediately called YUUMAC and told him, “I want to be a rider for EVISEN, so I’m quitting Welcome.” even though I didn’t know if I could become an EVISEN rider (laughs). From then on, I started buying and riding EVISEN boards instantly. Around that time, I was shooting with Naoyan, and he suggested, “Let’s approach KINARI directly.” So, together, we went to KINARI (laughs). In front of Katsumi and Shinpei, as an 18-year-old, I nervously said, “I want to ride for EVISEN.”

hippie jump
hippie jump

C: That’s amazing! What were their reactions?

K: They asked, “Why do you want to join the team?” and with my eyes sparkling, I said, “Because I think EVISEN will present me to the world in the coolest way!” Oh man, this story is so embarrassing (laughs). Then, they were like, “You get it, huh? Okay. You can ride EVISEN boards!” or something along those lines...

(Here, Filmer Naoyan joins the conversation.)

Naoya Morohashi (N): No, that story is totally off. Katsumi-kun was pretty dry about it, like, “Well, let’s see the footage first,” just casually dismissing it, you know (laughs). But Katsumi-kun seemed happy about it.

K: Probably, I’m the only one who went from almost zero relationship to sponsoring and becoming a rider.

C: Oh, really? I thought someone recommended you or Katsumi scouted you. Going after opportunities and seizing them, that’s clever and passionate like Kento.

K: I can’t wait for offers with my personality, so I prefer to charge in myself.

N: At that time, Katsumi-kun saw the beat-up EVISEN board that Kento was riding and said, “Are you buying the board? Well, I’ll give it to you from now on,” but Kento insisted, “Until I become a rider, I’ll buy them myself!!” (laughs). So Kento bought EVISEN boards from Instant while actively working on the footage for “LENZ III.” By the way, this is a side note, but Kento accumulated about 60 minutes of footage that hasn’t been released because he shot with us for such a long time.

C: What!!! So, about 55 minutes of footage was shelved?

K: Since the release of “LENZ III” was still far off, we were wondering what to do with this footage. After officially joining EVISEN, I consulted Katsumi-kun and he decided to release it as an EVISEN part on THRASHER. So, that footage wasn’t originally shot for EVISEN; it was initially for LENZ III.

C: I see. What was the turning point for Kento to officially join the team?

K: When I first talked to KINARI, we had arranged to skate together, so I eagerly joined any EVISEN rider’s shoot and showed off in front of Katsumi. He acknowledged my skills, gradually accepted me, and started shooting more seriously. I always give my best during filming, but when Katsumi is around, I push it up a notch, thinking I have to do something crazy right in front of him. That vibe hasn’t changed at all.

pop shove-it fast plant
pop shove-it fast plant

C: You have a huge number of followers on Instagram, right? Why is that?

K: When I was 19, I met Shinpei Ueno at a club and he handed me 10,000 yen, saying, “Hey, Kento, you’re working hard on LENZ. Let’s all have a drink.” After a heated discussion, he said, “Kento, you’re better at skateboarding than me, but I have more money. Do you understand what that means?” That lit a fire in me to become famous and popular. After that, when it came time to decide on the soundtrack for my part in EVISEN, I suggested using a 5LACK track to Katsumi. At that time, everyone from our generation was listening to 5LACK and I thought if the soundtrack for EVISEN’s first part was by 5LACK then everyone would watch it. But when it came to collaborating as a skater with a musician, I felt it would be disrespectful if the skater wasn’t as famous as they were. At that time, 5LACK had around 50,000 followers on Instagram, so I thought I could only ask to use his track only after I got more followers than him on Instagram. So, I listed all the tricks and topics that no one was doing in my head, wrote them down in my notepad, filmed them with my smartphone, and posted them every day. As expected, they all went viral, and my followers increased to about 60-70,000 in one go. Then, with more followers than 5LACK, I approached Katsumi through Katsumi and got the offer for the music.

N: This isn’t just about this time; every time we start a project or shoot a part, Kento lists all the spots and tricks he wants to try and films them. It’s not just tricks, but also attitudes and things to keep in mind, all noted down. Like, “Be kind to people.”

C: It’s not like it accidentally went viral; you strategically planned it all, right?

K: In the past, I used to note down even more details. Set deadlines and everything. Like, when to announce the VHS pickup, when to appear in THRASHER, and so on. In my mind, an element to go viral was doing something unexpected. It’s natural – when people witness something beyond their imagination, it surprises them. So, I aimed for that and went to increase my followers. I understand some people think caring about follower count is lame, but I believe follower count is important. In reality, it can add credibility in certain situations.

C: Did someone teach you the method of detailed note-taking and planning with deadlines?

K: No, I’ve been doing it naturally since I was a kid. If you just think about it, you tend to forget, and I wanted to make things happen. I decide everything about the part, like the structure and the music. I propose it to the filmer and editor after deciding once. I also approach musicians after showing them my previous works and expressing my passion.

N: For LENZ III, Kento was the one who specified even the music.

wallie judo
wallie judo

C: Going back to the homeless days, when you first came to Tokyo, who were you

skating with and where?

K: When I first came to Tokyo at the age of 15, I wasn’t skating much on the streets. I was aiming for AJSA in the park. One day, I heard there was a skatepark in Miyashita Park, so I went there. After Miyashita Park sessions, the KP crew was skating at a spot called “Unko Curb” (Translation: “Shitty Ledge”) just below the park. I looked at Tokyo street skaters with admiration, thinking they were so cool. However, Unko Curb was not exactly a prime spot; it was more challenging, it was a difficult ledge to do anything other than slide tricks. That’s why it was called Unko Curb, but coming from the countryside, I thought Unko Curb was super cool – this is TOKYO street! One day, Hiroki Muraoka suddenly appeared there, doing a K grind with that scraping sound. Super cool! I had been checking his videos since my days in Ehime, so seeing Muraoka, Akira Imamura, and Jiro Kaneko at Unko Curb, these three were all legends to me. At first, when I saw Jiro, I thought he seemed intimidating and sharp just by looking at his skateboarding. But even as a kid, he greeted me with a friendly “Good job!” So humble and cool, like a humble legend (laughs). The skating of those three and the KP crew was genuinely shocking, and from that point, my perspective on the city completely changed.

C: I didn’t expect Kento to be a fan of Unko Curb, a shitty ledge enthusiast... (laughs)

K: Around that time, I became friends with the Convenience Crew, who were around the Miyashita area. Haru approached me first, having seen a VHS MAG video I shot when I was in Ehime, saying, “You were in that video, right? Let’s skate together.” Through them, I got to know people of the same age, like Tenma Fukashiro. Seeing Tenma’s skating, I thought I also wanted to go in that direction. Tenma’s style was too cool; we had quite a few fights. He effortlessly landed a wall ride that I struggled to make, among other things. From that point, facing cool street skaters made me lose confidence in my own skating. There was jealousy, and since I was a rebellious kid, we fought. I ended up leaving the Convenience Crew, even though we had become close. We’re good friends now, of course, but back then, it felt like we had a falling out.

switch crooks to  fakie
switch crooks to fakie

C: Coming from your hometown, you clashed with the Tokyo street skaters of the same generation, and there must have been something you felt when you encountered them.

K: I was originally a contest kid... If friends tried the same tricks as me on the street, I’d get angry, break my board, and go home. It’s the folly of youth, right? (laughs) From that point, there was a period when none of friends my age were around, so I started going to various parks alone again. At that time, I was feeling cocky, so in the park I’d look down on kids practicing tricks like handrails with helmets on – I thought they were lame, despite being around the same age. At the same time, I’d do wallrides without a helmet and show off. (laughs) I was genuinely a terrible guy back then (laughs). Later, I met Ryo Motohashi who had a pure vibe, and he acknowledged my skateboarding. He also wanted to shoot not only in parks but on the streets. He invited me to go street skating. After that, I went to Yokosuka with Satoru to shoot for the OURS shop video. There, I met Rio Morishige, the Hongo brothers, YUDAI TV, and we got along well. Naturally, the Apple video project started through these connections. During this period of my life, I learned to appreciate people who genuinely love skateboarding.

C: Those are wonderful encounters.

K: The guys from Convenience Crew and especially Satoru Yoshida, who was the store manager at instant, helped me a lot. I was a bit too much of a kid and we had our fights. It seems I tended to fight with people I really like, haha.

C: You seem to really admire Satoru. Did you ever think of changing sponsor when he decided to start his own skate shop, Riverbirch?

K: At that point, Satoru wanted to energize Instant Kichijoji with younger skaters after his departure, so I decided to stay. He was a legendary store manager, after all. The void left by Satoru’s absence was significant.

C: That’s deep. I haven’t really interacted with him much, but I imagine he’s a warm person like Hocchan, haha.

K: Exactly, that’s the feeling. Love at that level is something others don’t have, I think. I really owe him. The love Satoru gave has been passed on to the young ones working at Instant Kichijoji Store. When I released my pro deck, they decorated the entire wall of the store with my boards and threw a party for me. At that time, Teppei, who had left after a fight, casually showed up at the party. Teppei, who doesn’t drink much, was shotgunning alone in a corner when we suggested shotgunning together. It was hilarious; I cried at that .

boneless
boneless

C: Kento’s passion and positive vibes are surely attracting good people.

K: That’s why in interviews like this, I want to properly shout out the names of the people who have helped me. Firstly, when I moved to Tokyo, the first person who filmed a part for me was Onan. The footage from that time was announced in VHSMAG’s pickup. VHSMAG was the first media to feature me, so the favor of VHS is genuinely immense. Being featured in such a dope media where guys like Haru and Jiro Kaneko also had parts was a significant confidence boostere for me as a teenager. Also, EVISEN’s art director, Hamachan. He took care of me when I was featured in VHSMAG, and the filmer Kenshin, who filmed me when I was in my hometown was also a huge support. He’s one of the few still making videos in my hometown. And the filmer Koto, who filmed my FEATURE part for VHSMAG, I’m grateful to him. Photographer Iseki-san, who was from the same region often shot me when I had just arrived in Tokyo. Maybe because we’re both from Shikoku, he treated me really well. There’s a time in life when you can no longer be with people who have been with you through a core period, right? But I change the people I move with to achieve significant dreams in each season of my life, and I keep repeating that.

C: Everyone has different life seasons, so there’s no need to feel pressured to align with that.

K: That’s true, everyone has their own life. But the people I’ve been involved with in the past have been crucial individuals in my life, so in this kind of situation, I definitely want to give them a shout-out. I think mentioning their names in an interview is the only timing to return love and gratitude. Also, I genuinely feel blessed with the people who brought me into the public eye. That might be the most significant difference from other young skaters. I’ve been blessed with great friends, and even during the homeless days, someone was always with me. I might have faced difficulties without money or a home, but I don’t remember anything being tough. I didn’t feel bored or lonely because there was always someone around.

C: Through this interview, I think I understand why you have so many allies and can realize your dreams in a positive way. Thank you!

K: Thank you very much!

Kento Yoshioka(吉岡賢人) @japanese_super_rat

Born in 1999. Matsuyama, Ehime Japan
Sponsor:
Evisen skateboards
adidas skateboarding
新宿租界
Maison shakejunzi
Instant skateshop
Film trucks
Bones wheels

An online skateboard zine by Nobuo Iseki.
Go to shop: nobuoiseki.thebase.in

Powered by RED STUDIO INC.

Copyright 2024 © All rights reserved.

Web design & development by upcoming.studio